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タテ社会、残業、投下時間と貢献

残業の話をチラホラ見かけたので。

タテ社会の人間関係 (講談社現代新書 105)

タテ社会の人間関係 (講談社現代新書 105)

上の本を読めば、日本の残業制度がどういう背景をもって機能しているのかが見えてくる。

第一に、タテ社会型組織では個人の能力差をミニマムに考える。

皆が一様に仕事ができる(あるいはできない)と考える、ということ。ぎりぎり存在して「学歴差」などの大ざっぱなものに限られる。年功序列(勤続年数で給与が一律にあがっていく)、なんてまさにその考え方を表現した制度だろう。

伝統的に日本人は「働き者」とか「なまけ者」というように、個人の能力差には注目するが、「誰でもやればできるんだ」という能力平等観が非常に根強く存在している。

能力差をミニマムに考えるということは、「Aという成果を出すのに、Bという時間がかかる」が共通している、ということだ。

第二に、年功序列制度では、投下時間が社会的資本として機能する。

いいかえれば、個人の集団成員との実際の接触の長さ時代が個人の社会的資本となっているのである。しかし、その資本は他の集団に転用できないものであるから、集団をAからBに変わるということは、個人にとって非常な損失となる。

日本での「転職」が、一種悲痛的な色合いを帯びて語られるのも、こういう背景があるからだろう。もちろんそれは、「手取りが減る」という現実的な結果が引き起こしているのだが、その原因となっているのが、上のような事柄だ。

実際の接触時間の長さが大きな役割を持つのだから、会社に長くいればいるほど__つまり残業すればするほど__、その人は貢献していることになる。

もちろん、この考え方が機能するのは、個人の能力差をミニマムに考えているからこそだ。

面白いのは、たとえば3時間残業するのと、3時間早出するのでは、おそらく前者の方が「貢献度」が高いと認知されうることだ。私には組織的感覚はわからないが、きっとそうではないかと推測する。

仮にそれが正しいのだとすれば、結局それは「代価の大きさ」ということになるのだろう。つまり、退勤時間以降の時間は、飲みに行ったり、遊びに行ったりと、プライベートに十分使える時間だ。それを捨ててまで、会社で仕事をしているのだから、貢献度は高い。

逆に朝の6時だとかは、他にすることはない(と考える人は多い)。まあ、お店があまり空いていないのは確かだ。だから、前者に比べると、貢献度は低い。そういう認知だ。

実際、早朝出勤しようと思えば、早く寝なければいけないので、あんまり変わらない気もするのだが、そういう実際的な変換は、脳の直感的な理解では行われない。

結局のところ、小手先の制度をいじってもどうしようもないと思う。簡単にいってしまえば、その会社の「文化」を変える必要があるし、時には中にいる人をごっそり変える必要もある。問題の根は、結構深い。